「魔法少女まどか☆マギカ」の新房昭之総監督とシャフトが制作を務める。愛らしさと色香を備える少女の表現や世界が瞬く間に幻想的に変わる独創的な演出が作品を構築する。
※U-NEXT作品ページより
夏休みの花火大会を前に「打ち上げ花火は横から見たら丸いのか?平べったいのか?」という話で盛り上がる典道たち。そんななか、典道が想いを寄せるなずなは親の再婚が決まり転校することになる。思いつめたなずなは典道を誘い、町から逃げ出そうとするが…。
※U-NEXT作品ページより
(及川なずな) 広瀬すず
(島田典道) 菅田将暉
(安曇祐介) 宮野真守
(純一) 浅沼晋太郎
(和弘) 豊永利行
(稔) 梶裕貴
(なずな母の再婚相手) 三木眞一郎
(三浦先生) 花澤香菜
(光石先生) 櫻井孝宏
(典道の母) 根谷美智子
劇中には、これといった事件や登場人物が解決すべき謎は生じません。主人公の 夏のある一日の出来事を追っていきます。
誰しもの記憶の奥に眠っている やり直すことのできない小さな後悔。その もしもを、可愛らしい少女と少年の物語として、美く描かれていきます。主人公たちの会話のぎこちなさを耳にして感じる気恥ずかしい気持ちも思い出に重なって映りました。
《タイムマシンの物語においてタイムパラドックス問題を解消しようとした挙げ句、タイムマシンを物語からカットしてしまった。》
そのような原案に、パラレルワールドの過去に移動すればタイムパラドックスは生じないという回答を示したのが、このアニメであるが、そもそもパラレルワールドに移動できる時点で、その人物はタイムマシンを手に入れる以上の絶大な力を手に入れている。つまり、もしも玉はたまたま今回は過去をやり直すという目的で使われているから、その程度の結果しか出していない。だから、「世界征服したい」という願いでもしも玉を使えば世界を征服できるし、「満漢全席を食べたい」という願いで使えば満漢全席を食べる事ができる。もっとも同時にパラレルワールドへの移動が起こっているので、その世界は征服する価値がなかったり、こちらの世界とは全く違った料理が満漢全席として出てくるかもしれない。
このアニメがパラレルワールドネタである事を鮮明にするために、チャブターがA~Dの四つのパートに別れている。Aが基本となる世界で、AからB、BからさらにCへと典道だけが移動してゆき、Cの世界からさらにDの世界に移動する時にはなずなもまたパラレルワールドへの移動に成功している。並行世界に移動したと言っても、一気に世界のデザインが変わってしまうわけではなく、例えばAの世界で花火は丸いと言っていた祐介が、Bの世界では団扇を使って花火が平たい事を説明するように、小さな違和感を覚えさせるエピソードを積み重ねていって、花火の打ち上げシーンでその世界が今までの世界とは違う事が明らかになるという演出になっている。
ただし、このアニメのテーマになっているものは、力を手に入れる事ではなく力を手放すことである。どうして彼等は力を手放したのか? その答えとなっているものが、なずなの表情変化にある。なずなの表情変化には、三つの大きなターニングポイントがある。一回目のポイントはプールで「駆け落ち」を思い付いた時である。それまでのなずなはほとんど目を人と合わさず、感情の多くを口元で表している。二つ目のターニングポイントは、駅で母親たちを振り切った時で、目の動きをを多用したハイテンションな表情になっている。Cの世界では歌を歌い始めるし、Dの世界ではひょこひょこ歩きという、おそらく誰にも見せた事が無いであろう剽軽な表情を見せてくれる。しかし基本的には、典道に話しかけているようでいて、自分自身と話しているような硬い芯の部分があって、それが何なのかはまだわからない。硬い芯の部分が出てくるのが三回目のターニングポイント、元の世界に戻る事を決意した時である。ここでは顔全体の表情は少なくなり、目の表情で大きく訴えかけるようになる。目の表情だけであるが訴えかけるものは多く、典道への視線も慈愛に満ちたような、何かを悟ったような感じに変化する。
この微妙な表情が意味するものを敢えて一言で表現するなら「無常」ではあるまいか。そう考えると、今までになかった深いアニメである。
素直になれない、勇気が出せない、勇気の出し方が間違っている。
それで逃してしまった大切なものを認められず、人はどんどん腐ってしまう。
あのときこうできていれば、こうなっていれば、後悔というもの。
それを糧にできるかできないか。
まだ心も身体も成長が未熟な青春の一瞬で、
パラレルワールド的追体験を受け、エンディングにいたる。
なずな「次に会えるのどんな世界かな」。
のりみちとなずなのいない教室、肘をつくゆうすけ、揺れるなずな。
夏祭りの前に戻ったという説ではではなく、
あくまで追体験を受けた上で現実に戻ったという方が映像的にはしっくりくる。
その上で次こそは花火を二人で見るべく、
のりみちが行動した最後と解釈し、なんだか泣けてきました。
雑記:
レビューをざっと見渡したが、あまりにも稚拙なレビューは辛い。
理解できなければ、酷評、風評流しは
芸術にも、知力底上げにも、相互理解にも妨げだからやめて欲しい。
この映画、実はとっても面白いです!
公開当時、映画館で2回、Amazonで3回目を見、このレビューを書くためにも見返しましたが、見るたびに新しい発見ができる素敵な作品です。
この映画、中学生の少年少女の恋の物語ではありますが、テーマは恋とか愛とかではありません。ズバリ「勇気を持って一歩踏み出すことの大切さ」についてのお話です。
なぜそう言えるのか?
物語とは得てして、アンチテーゼから語られるものです。この映画も例外ではなく、テーマの障害となるものからお話が始まります。つまり、勇気の反対です。
映画の序盤、主人公である典道は、親友の祐介になずなが好きであることを隠します。また、水泳競争で負けた理由をなずなに聞かれた際は、彼女に見惚れて注意がそれたこと(なずなが好きという事実)をバレないよう言いつくろいます。
彼のこれらの行動は、好きな人に嫌われるんじゃないか、友達にバカにされるんじゃないかという不安から生まれたものです。自分の行動によって現状が変わることにネガティブな気持ちをいだいているために、中立を保とうとするのです。
子供っぽい純情を手放しつつありながらも、自分は自分だと割り切れるほど大人にもなりきれていない…そんな小中学生時代の自意識は、共感できる方も多いのではないでしょうか。典道とはそんな少年時代の弱さを体現したキャラクターだと言えます。
しかし劇中ではその自意識によって、他人を傷つけることになります。彼は結果的に自分の手で好きな女子を失望させ、永遠に手の届かないものにしてしまいます。
事実だけ見れば失敗の原因は水泳競争で負けたことですが、問題の根本はそこではなく、彼の心にありました。
そのことを自覚し後悔した典道は、「もしも玉」を使ってIFの世界へ飛び込んでいくのです。
ちなみに祐介もまた、少年の肥大化した自意識を抱えています。
彼は典道がなずなを好きなことを知っており、ライバルとして危機感を感じて「俺が勝ったらなずなに告る」と、あとさき考えず対抗心を燃やします。しかしいざなずなに誘われると、どうしていいか分からず、「花火は丸いか平べったいか?」なんて大して興味もないのに、友達の輪の中に逃げていきます。そして典道に約束を断る役を押し付けます。典道に「行けばいいじゃねえかよ」と言われるものの、それで「やったーサンキュー!」となるようなキャラクターではありません。付き合ってるなんて思われたらバカにされるという勝手な危機感から、「好きじゃねえし、あんなブス」と言って本心を偽ります。しかしやっぱりなずなのことは好きで、典道に黙って抜け駆けされると「マジうぜ」と切れてしまいます。
恋と友達、どちらも大切なのにどちらも大事にできない(もっと言えば自分自身を大事にできない)ジレンマを抱えた人物なのです。そういう点では典道より問題の深刻度は高いのですが、その性格が元で、約束を破る破らない以前になずなには「安曇くんとなんかイヤ」と好かれていません。
個人的に、現実の自分自身の悪い面を見せつけられているようでハッとさせられる人物です。
次になずなですが、ヒロインである彼女もまた、隠しごとをかかえています。観客にも分かりにくいようになっているので、彼女の気持ちが読みづらく非常にミステリアスな人物として映りますが、彼女には彼女なりの行動原理があります。
なずなが隠していること。それは「典道への好意」と「家出の理由」です。
彼女はずっと典道のことが好きでした。彼女は最初から典道と駆け落ちするつもりで、彼に分があると踏んだ水泳競争に参加しています。典道が勝った時と、祐介が勝った時の彼女の反応でそれは明白です。(比べてみれば一目瞭然で、見逃された方は一度見返してみるとそれだけでも面白いです)
また、なずなは劇中の舞台である「茂下町」で育ち、一年前にお父さんを亡くしています。映画内では父と娘の関係はほとんど語られていませんが、映画の補完的作品である小説版には、なずなはお父さんのことが大好きだったことが描かれています。その父と突然死に別れ、彼女はお父さんへの未練を拭えないまま、現在に至ります。
そこへ降って湧いたのがお母さんの再婚と引越しの話です。なずなは新しいお父さんを受け入れられません。彼女にとって茂下町を離れることは、片思いのまま好きな典道と会えなくなるということであり、昔のお父さんとの思い出の町を離れて、よく知らない男と暮らすということでもあったのです。
映画では単純に「新しい父親を受け入れられない」「住み慣れた町を離れたくない」というだけでもお話としては筋が通るので、昔のお父さんのことは極力削られたのだと思いますが、なずなと父の関係を表すシーンは随所に散りばめられています。物語の序盤、登校日の朝になずなは海岸にいましたが、これもその一つです。
劇中、なずなが小さい頃にお父さんとこの海岸を訪れているシーンが出てくるため、おそらく彼女にとっては思い出深い場所なのでしょう。この日、お父さんのことを思い出すために足を運んでいました。
と同時に、彼女はこのタイミングで家出を決意しています。
花火大会の日に家出を決意した。実はこのことにも理由があり、それこそが家出の直接的な原因になっています。典道を誘う口実として都合が良かったというのもありますが、それだけではありません。
典道と駆け落ちした時、花火大会には行かず駅に向かったのに、どうしてなずなは浴衣を着ていたのでしょう? 考えてみたら矛盾した行動です。実はなずなはこの日、お母さんと新しいお父さんの3人で花火大会に行く事になっていたのです。
しかし彼女は前述の通り新しいお父さんを受け入れていません。彼女がお母さんに捕まった時に「行きたくない!」と叫んでいますが、これは花火大会のことです。お父さんが死んでさえいなければ、今頃は大好きなお父さんと花火大会に行けていた事でしょう。それなのによく知らない男と行かなければいけないのが、なずなには耐えられなかったのです。
「なずなは典道が好き」「新しいお父さんと花火大会に行きたくない」以上が、なずなが隠していることです。言うなれば、なずなも典道と同じく現状への執着、変化への恐怖心をかかえていると言えるのです。
彼女は謎が多いので、その説明のために文章も長くなってしまいましたが、これを知るだけで映画への印象が大きく変わることと思います。
こうして家出を決め、どうせなら好きな人とどこか遠くで新しい生活を送りたいと考えたなずなは、典道を家出の道連れに誘うに至ります。(最初に好きでもない祐介を誘ったのは、とにかく花火大会に行かないようにすることを優先してのことですが、彼女の本意ではありません。)
しかし彼女は、花火大会に行きたくなくて駄々をこねているなんてことは典道に知られたくありませんでした。好きな男子に子供っぽいと思われて幻滅されたくないからです。「家出じゃない。これは駆け落ちだから」と言い張ります。
ちなみに、現実世界のなずなはあっさり典道に家出したと打ち明けていますが、これは典道との逃避行の計画が頓挫しながらも、それでもなお彼に連れ出してもらいたいという淡い願望を込めて発言したものです。置かれている状況が違うため、発言も変化したのです。
その後もなずなは、水商売で生活するなんて言ったり、お化粧して大人っぽいワンピースをきたりして、目一杯背伸びして大人ぶります。これらは全て、典道に子供っぽいと思われないようにするためのハッタリです。真正ビッチな訳ではありません。(とはいえ、花火大会に行きたくない一心だったことや、おそらく人生初であろう家出を敢行したことで、感情的になって視野が狭まっているのもあり、最初のうちは半分以上本気のつもりだったことでしょう)
しかし、彼女は自分で自分が子供だということを自覚しています。衝動的に家出をしたものの「家出なんかできないし、駆け落ちなんかできっこない」ことも本当は分かっています。
一方で、追ってくるなずなの両親や、祐介たちから自分を守ろうとしてくれる典道にさらに惹かれていきます。そして、せめてひとときだけでも好きな人と一緒にいたいと、家出の目的が変化していきます。典道も「もしもお前がいなくなるとしても、今日だけは一緒にいたい!」となずなと同じ思いを共有し、「家出」は文字通りの「駆け落ち」になっていきます。
ところで、冒頭でこの映画のテーマは「勇気」だと言いましたが、実はもう典道もなずなも勇気を振り絞って行動しています。典道はなずなのために駆け落ちに加担し、大人にも立ち向かいました。なずなは子供にとっては一大決心である家出を敢行しました。すでに彼らは勇気を手に入れているのです。
しかし物語は終わりません。それどころか、なずなの両親や祐介たちに追い詰められ、花火はおかしな形になっていき、「違う。この世界は違うよ」と違和感を覚えます。
実は2人は、勇気の使い所を間違えているのです。本当に勇気を出すべきところを見失っているために、何度IFの世界を繰り返してもハッピーエンドにたどり着けないのです。そして違和感の正体を掴めないまま、最後のIFの世界、いびつな世界へと迷い込んでいきます。
ここから物語は劇中の電車のように、車線を変えて進み始めます。物語の軌道を変化させながら、テーマである本当の「勇気」へと迫っていくのです。
最後のIFの世界で、典道はなずなとの別れが迫っていることを意識し、彼女に「お前とずっと一緒にいたい!」と叫びます。いつの間にか、ひとときだけの駆け落ちで終わらせたくない気持ちが大きくなっていたのです。それは叶わぬ夢だと、なずなも典道も分かっています。
しかしその典道の吐露は、彼が自分にとって大切な存在になっていたことを、なずなに自覚させます。そして「ねえ、泳ぎたくない?」と海に入っていきます。本当に私のことが好きなら追いかけてきてよという、彼女なりの愛の確認です。もし典道が追いかけてきてくれたら、なずなにとってどれほど素敵で心満たされることか分かりません。
一方典道は、(きっと多くの観客と同じように)なずなのこの謎行動の意味を理解できず困惑します。それでも、彼女の魅力に惹かれ告白しようとします。
しかし典道は今まで、なずなから一度も直接好きだと言われていません。そのため彼女が自分のことを好きだという確信が持てず、自分の恋心に自信が持てなくなり、告白を躊躇してしまいます。ここへきて臆病な典道に逆戻りしてしまうのです。
そこで背中を押すのが、花火と間違って打ち上げられ、砕け散ってしまった「もしも玉」です。
もしも玉の破片には全てがうまくいったIFの世界が映し出されます。それは典道となずな(ついでに祐介)に、自分の本心を写す鏡として映り、典道にとってなずなが大切な存在であることを、彼自身に思い出させます。
自分にとって何が一番大切なのか。それを理解した典道は、なずなを追って海に飛び込みます。そして2人は、いつかきっと再会することを約束して別れます。
今まで彼らは、嫌な現実から逃れるために勇気を振り絞ってきました。それが、何度IFを繰り返しても報われなかった理由です。しかし、自分を大切に思ってくれる人がいることに気づくことで、また、自分がどれほどその人を大切だと思っていたか知ることで、「現実を受け入れる勇気」を手に入れたのです。そして未来を、別れという現実を、悲しいだけのもので終わらせず、希望あるものに変えたのです。
こうして、2人の恋の逃避行は幕を閉じます。メデタシメデタシ。
(しかも、なずなが思っているほど実はお母さんも新しいお父さんも悪い人ではなく、彼らなりになずなのために行動している人たちであることが劇中で示唆されています。いつか分かり合える可能性は十分あり、引越し後の未来にも一定の配慮がなされています)
しかしまたもや、物語は終わりません! まだ別の問題が残っているのです。
その問題とは、「現実世界のなずなはIFの世界のなずなの記憶を持っていない」ということです。
せっかく再会を約束したのに、現実世界のなずなは祐介に約束をすっぽかされ、典道と駆け落ちしないまま失意のうちに町を去ろうとしているのです。これは、最後のIFの世界で、典道が現実世界で祐介に水泳競争で負けたことや、それまでのIFの出来事を、なずなが「なんの話?」と覚えていなかったことから逆説的に推察できます。
このことを知っている典道は、現実世界の、登校日の、なずなたちと水泳競争をするずっと前の時間に帰ってきて、なずなに「勇気を出して」告白をしに行きます。あるいは、自分から一夜限りの駆け落ちに誘いに行ったのかもしれません。いずれにせよ、ラストシーンで教室に典道となずなの姿がなかったのは、そのためです。あのラストシーンは、無事(ちょっぴり切ない)ハッピーエンドを迎えられたことを意味していたのです。
以上が僕の解釈です。
人物の行動・発言の動機が分かりやすく示されているわけではないなど、難解な点が多いため批判的な感想を持たれた方も一定数いると思います。しかし、一人一人の人物はしっかり性格づけされ、それぞれが意思を持ち、それが絡み合って物語が成り立っているという点や、演出を含めた中学生のリアルな心象の描写など見所も多いです。駄作と決めつけてしまうにはあまりに惜しい作品だと思うので、このレビューが一人でも多くの方の参考になればと思います。
長文駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
Amazonより
コメント